カウンセリングのすすめ

心理カウンセラー小林宏の散文

人間の潜在力への信頼

どのようなカウンセリングや心理療法であっても、クライアントが直面している困難な心の問題や悩みを克服し成長することを援助しようとするならば、そのクライアントが自らそれを成し遂げる潜在力や前進的傾向を必ず持っていると信頼するのが大前提になる。

もし、この人はもう自分の力で立ち直っていくことも、自分の力で自分の問題に取り組んでいくこともできないとみなすなら、カウンセリングも心理療法もその時点で成立しない。

これは教育やあらゆる人間関係においても同じである。

人が人の力になる、人が人の心の援助をする場合は自覚してるかどうかは別にして、この潜在力、前進的傾向への信頼があって初めて成立する。

そしてその確信を拠り所にするしかない。

仮に「あいつは駄目だ」「彼はどうも立ち直れない」と思いながら様々な働きかけをしても全く無意味である。

しかし、この「人間の潜在力、前進的傾向」は無条件にいつでもどんな状態の人間にも必ず発動するわけではない。そのような安易な考え方を持ってカウンセリングや援助的な関わりをするならば失敗してしまう。

現実には、一旦様々な悩みからつまずいてしまった場合は、そう簡単には発動しない、というより困難に近いと思われる。

しかしたとえ困難に近いことか現実だとしても人間が人間と関係を持つ、その関係のなかでお互いに助け合ったり成長していこうと思うならばこの「人間の潜在力、前進的傾向」を信頼することから出発するしかない。


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強迫神経症

異常に手を洗ったり部屋をきれいにしたりという「不潔恐怖」や電車に乗れないといった「乗り物恐怖」は強迫観念からの強迫行動である。

本人にとっては全く不合理な無駄な行動だとわかりながら、しかしそれを抜きにしては一歩も前には行けない。

強迫神経症というのは本当に厄介で苦しい「心の病気」である。

しかもこの状態から抜け出せないのは意思が弱い、根性がだらしないからだとして意志の力で戦おうとするのは大きな誤りである。

基本的に「心が健康」である場合は自分の中から起こる怠慢、安易、逃避などの心と戦い、乗り越えようとすることは精神や心を鍛えるていうことになる。

しかし「心が病気」(強迫神経症)の場合は自分の中から起こる不安感、こだわり、症状などと戦い、意志の力で乗り越えようとすることは益々病気を悪化させることにしかならない。

このどちらかであるかの見極めは自分の心に正直になりさえすれば当の本人にはさほど難しいことではないように思える。

ここで一番問題になるのは親や周囲の人々が当の本人の気持ちや意向を無視して怠慢、安易、逃避と決めつけて短絡的に追い込んでいくことである。
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アイデンティティの確立

人間は生まれてから幼児期までの間に親との接触の中で、人間なら誰もが共通に持っている感覚や人間性を親と同一化するという過程で発達させる。これを「自己同一化」という。これにより人間として社会的適応をして生きていくための、人間なら誰もが共通に持つ当たり前の感覚や人間性はほぼ6才ぐらいで確立する。

そして「思春期」「青年期」に今度は「自己同一性」いわゆるアイデンティティを確立する。

アイデンティティの確立とは幼児期、児童期に発達させた人間なら誰もが共通に持ってる感覚や人間性をもう一度点検、見直しながら同時に「その人らしさ-個性」や独自性を発達させていく。

つまりアイデンティティとは人間としての共通性と個性とのバランスある統合を意味する。

別の言い方をすれば人間が人間社会の中で様々な人々と適度な交流がもて社会的適応をしながら同時に自分らしく生きていけるということを意味してる。

このバランス感覚は青年期の精神発達、そして大人になるためには重要なことである。

この自己同一化と自己同一性の発達がなんらかの障害で健康的に発達・確立しない時に「人格障害」をはじめとする様々な精神障害が起こる。

そしてそれは後になってやり直すのは非常に困難をともなうのである。
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アイデンティティクライシス

「自分には自分らしいものが全くないと思います。私は例えば友達に"あなた何色が好き?"といわれると、自分では何色が好きなんだろう?って思わないんです。この人は何色が好きなんだろう?この人は何色が好きだって言ってほしいんだろう?ってすぐ思ってしまうんです。そしてこの人は赤が好きなんだ、赤が好きだって言って欲しいんだって思うと、私は赤が好きだって答えていたんですよ。それはどんな事でも同じで、自分がどうかではなくて、相手の人がどう思ってもらいたがっているか、どうしてもらいたいと思っているだろうかを基準にして動いていたんですよ」

これは大学生の女子の発言である。まさにアイデンティティクライシスである。

これは「相手を喜ばせることが自分の喜びである」というのとは違う。彼女には自分の喜びという実感がないのだ。

自分の考えや感じに頼るのではなく、相手の意志に沿って相手に合わせることばかりやっていたり、受験、受験とそればかりで自分の精神的内面と付き合わなかったり、友人関係を避けてきたりすると"自分がない"状態で大人になってしまうことがある。

彼女は高校を卒業して大学生になり親と離れて一人暮らしをするようになって初めてこのままではやっていけないと気付いた。

今まで親に決めてもらってきたので、「自分で実感することがわからない」のだという。

自分で自分の実態に気付いたのだから、これからは意識をして自覚的に自分の内面をよく見つめ、自分の中でどんなものが動くのか、それを意識化する練習をしていく必要がある。
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自分の力で立ち直らせる?

自分の身近にいる人が精神的不健康におちいったときなど、なんとかその人を救ってあげたい助けてあげたいと思う人は少なくない。しかしまさにズブの素人がこのような人を救う、援助者になるというのは、そうそう簡単なことではない。

もし素人が救えるとしたら、それは相手が泣こうがわめこうが全く動ぜず何をされようと心動かさず鷹揚に見ていられるというのが最低の条件になる。

それが相手がなにかあるとすぐにあれこれと気づかい、あれこれ小まめに手出し口出しするというように、下手に動けば相手の感情をただ刺激するだけで、救うどころか結果はかえって逆効果になってしまうのである。

何をされても動ぜず鷹揚でいられる人などいないのではないか?

人格障害の治療は、今日の精神医学の分野では最も難しいといわれている。

難しい分野の病気の人に対し、人情論から安易に抱え込むのは危険である。下手をすれば、人を救うどころか共倒れになりかねない。

一見非情のように思えても異常と思える世界では、やはり確かな専門家の判断を仰ぎ委ねる、そういう姿勢も大事である。
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適性と適応(職業選択)

職業選択においては、自分がどんな職業、職種にむいてるかという、いわゆる「適性」を見極めるということは、最も重要な要件である。

自分の適性を見極めるといっても、客観的な証拠がないだけに、誰にとってもそう容易なことではない。

そこで「適性」を見分ける一つの観点として「どんな仕事をやりたいか」「何が好きか」という、自分の「興味・関心」を職業選択の基準にするということがある。

「興味・関心」ということなら、自分を正直にかつ正確に見ることが出来れば、一体自分が何をやりたいか、どんな職種が好きなのかを見極めることは出来るはずである。

自分にとって本当に「興味・関心」のある仕事を見出せたとすれば、それは自分の「適性」を見出せたといってもいいのであろう。

そして、どんな職業でもつまづきや挫折を経験する。それを見るとき「適性」の観点の他に、「適応」という重要な観点がある。

仕事につまずいたり挫折したりしたとき、人はこの「適性」と「適応」を混同しがちであり、これを混同してしまうと、益々深みにはまってしまうことが多い。

「適応」とは職場環境、そこでの人間関係、労働条件などに順応しながら、自分らしく仕事ができるかどうかということである。

それが思うように職場に順応出来ず、自分に対しても不適応感を持つならば、それはもともと社会生活を円満に送ることが難しくなっている「心理的不適応状態」か「心の病気」を持ってるか、問題に直面したとき、それを無難に処理し克服していく力が十分に育ってない「未熟さ」「心の貧弱さ」の表れかのどちらかである。

一つのミスを犯したとき、その挫折感をどうやって克服し脱出していくか、その道筋をうまくたどれないでいるとき、人は適応ではなく適性を軸に考えやすい傾向がある。

自分自身に目をむけ、自分の問題と取り組み、克服するということより、自分に向かない仕事だったのだと新しい仕事を探すほうが楽だということだろうか?
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教師と生徒の距離

ある学校で盗難事件が起こった。

校内の開店前の売店の側に置いてあったパンが大量になくなっていた。

犯人は生徒15人だった。

学校側はこれほど多くの生徒が校内で一緒に万引きをしたということを重大視した。

いつもは学校から父兄に連絡をしてその後自宅謹慎などの処分をするのだが、今回は事の重大性を考慮し本人の口から直接親に伝えさせ「本人から聞いた」という内容の文書を親の署名入りで提出させることにしてその上で自宅謹慎であった。

ところが教師が話してみると本人たちからは「反省してる」という言葉とは裏腹に反省の色が全く伝わってこない。

そのことを耳にした副校長は「これだけのことをしておいて反省の色がないとなるとこれは退学処分しかない」といきりたってしまった。

教師は生徒と話しても何かピンとこない、ピタッといかない思いがしていた。

何故だろうか?

おそらく生徒たちは心から反省するという気にはなっていない。

本心は「たかがパンじゃないか、それをオーバーにヒステリックにならなくてもいいじゃん」ということではないのか。でも先生の前でそんなことを言ったら大変なことになるとわかるから「反省してる」と言っているのではないか?

教師が例えば「君たちは言葉では反省してるとかすまなかったとか言ってるけど、本当はたかがパンと思ってるんじゃないか。正直に言っていいよ」と言えばどうなったか?

おそらく生徒は自分の本心を言うと思う。

教育とか指導は大人から一方的に与えるのではなく、生徒たちからの正直な声、率直な思いを聞いて、もし問題があるとすれば、その上で正していくことが大事である。

おそらく実態はある意図を持った悪意のあるいたずら、嫌がらせといった行為ではない。たまたまそこに居合わせた生徒たちの悪ふざけ遊び感覚の出来心だったということだろう。

今回パンを失敬した生徒たちにここで事の重大さを深く認識させ反省させなければ将来万引きの常習犯になるかもしれないなどという考え方は生徒一人一人の実態とはあまりにかけ離れてるということになるのではないか。

それでは教師と生徒の距離はあまりにかけ離れてそれを埋めることは出来ない。

「君たち、本当はたかがパンと思ってるんじゃないか。もしいたずら遊び感覚ということで、しかも校内でのことだし、もう少し大目にみてくれてもいいんじゃないの、ということならわからなくもない。でもやったことはやったことだから後始末くらい自分たちできちんとやりなさい。それはわかるだろう?」と生徒にいってあげればよいのだと思う。

その方がはるかに生徒たちは自分のやったことを認識し今後の自分のありかたに目がいくのではないだろうか。
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