「決まる」か「決める」か
人生の様々な場面において、選択ということに直面した時、その一つのポイントは「決まる」か「決める」かである。
「決める」とは自分の考えや意志によって、例えば二者択一なら、その一つを選択するということである。
しかし同じ二者択一ということであっても、あれこれ時間をかけて整理し熟慮しているうちに、一つの選択肢が消え、選ぶ道が自然と一つになってしまう。まさに「これしかない」となる。これが「決まる」である。
本来、選択は、これしかないというように自然と「決まる」ことに越したことはないし、その選択において必要な要件をすべて網羅して見落としがなければ、いずれ「決まる」だろうから選択を誤るということは、まずないと思われる。
選択は「決まる」に越したことはないのである。
しかし期限が限定され十分に時間をかけ「決まる」まで待てずに決めなければならない時に、人はよく選択を誤ってしまう。
危ういことである。
自己決定
自己決定。
自分のことは自分で決めるということは、誰にとっても自分の人生を生きる様々な選択場面で重要なことである。
この選択という自己決定において重要なことはその選択に必要な要件をすべて公平に網羅して検討するということである。
人間は子供でも大人でもその時々の選択においてその選択に必要な要件がすべて見えているのであれば選択を誤るということはないのではないか?
例えば学校を「やめる」か「続ける」かという選択において「続ける」は親に丸め込まれた結論で採用できないとすれば「自分で決める」となれば「やめる」という結論しか出し得なくなってしまうということになる。
ここに選択における重大な落とし穴がある。
たとえ客観的にみて正しい方向だとしても親や教師などの第三者があまりに強くある方向を助言するとその方向で選択することは自分で決めたこと(自己決定)にはならなくなるということで、あえてその方向を選択要件からはずしてしまうことは実はよくあることなのである。
人が様々な選択に迷ってる場面において適切な助言や指摘をすることがどれほど難しいか。下手をすれば相手の人生を狂わせてしまいかねないのである。
学校に行けない
不登校を扱う時。
まず気を付けなければならないのは、「学校に行かない」のか「学校に行けない」のかをハッキリさせることである。
親が子供の状態や不登校の真相を見極めずに、色々な方法を使って学校に行かせようとするのは、子供の不登校は子供が「学校に行かない」つまり自分の意思や考えで学校に行かないことを選択していると決めつけて見ているということである。
それで学校に行くようになればいいだろう。
しかし不登校の場合、出来れば学校に行きたいと思ってるのにもかかわらず「学校に行けない」ことのほうがはるかに多い。
ある中学生は「学校に行こうとして家を出てもあるところまで行くと必ず足が動かなくなる」というのである。
学校に行こうとする本人の意志に反し、身体が拒否反応を起こす。まさに「学校に行けない」のである。
こんな場合無理に行かそうとすると心身からくる拒否反応が刺激され恐怖感すら抱くようになり逆効果になってしまう。
また、その原因は本人にはわかってるはずだと親はつい思ってしまう。
しかし、「学校に行けない」場合、何故学校に行けないか?その原因や真相は本人にも不明なのである。
原因や理由がわかってればそれなりの対策を考えるはずだからである。
あるところで動けなくなる、頭やお腹が痛くなって登校できなくなるというのは、たとえ原因や理由はわからなくても本人が学校に行こうとして努力した結果起こった現象である。決していわゆる仮病や意志の弱さや自覚不足からくるものではないということを何よりもしっかり認識しておくべきである。
「学校に行けない」という場合はその原因や理由が学校以外にある事も多い。支援者は本人の口から言わす以外の方法で情報を集めることが大事だろう。
そして本人がその全体的な真相を見極めていく、そうゆう過程を大切にするようなきめ細かい支援が必要になってくると思う。
カウンセリングとは
カウンセリングとは一般的には、カウンセラーは出来るだけ早く問題を解決してあげるのであり、悩みをなくしてあげる事と思われてます。
しかし私は、カウンセラーは、クライアントと一緒にどれだけ沈潜し、落ち込んでゆけるかである、とさえ思ってます。
そうすると以下のようなカウンセリングがよいカウンセリングだと思います。
「問題があるならば、その問題にその人が十分に取り組める」
「悩みがあるならば、その悩みをその人が十分に悩める」
「わからないことがあるならば、そのわからないということそのことを、その人が十分に体験できる」
なぜならば、人間は誰でも、何かを十分にやれば、必ずその先へと飛躍し、発展してゆけるからです。
それを「援助する」ということで、問題を早く解決してあげたり、悩みを軽減させたり、わからないことをわからせたりするのは、中途半端なところで救い上げたり、助けたりすることになります。かえって「不完全燃焼」になり、十分な成長を妨げてしまいかねないのです。
ですからカウンセラーは、この、十分に問題に取り組める、十分に悩める、十分にわからなくなれる場や雰囲気を作るのが仕事であるともいえます。
愛着障害
●愛着障害とはどのようなものでしょうか。
幼少期に不適切な養育を受けた子どもは、安心感や愛情が満たされないため、親子の愛着(アタッチメント)がうまく築けなくなることがあります。
自己肯定感を持てず、幼児期以降に大人や友だちとの交流、心のコントロールに問題を起こしてしまいます。
これを愛着障害といい、反応性アタッチメント障害と脱抑制型対人交流障害に分類されます。
不適切な養育とは、虐待や育児放棄だけではなく、育児より仕事に時間をとられるお母さんの場合にもあてはまります。
●反応性アタッチメント障害とはどのようなものでしょうか。
これは、うれしさや楽しさの表現が少なく、つらいときや甘えたいときも素直に甘えられず、人のやさしさに嫌がる態度を見せます。相手に無関心で用心深く、信頼しないなど人との交流や気持ちの反応の少なさがあり、一見すると発達障害の自閉スペクトラム症(ASD)のような症状を示します。説明のつかないイライラや悲しみ、不安など心のコントロールに問題もみられます。
大人になってからも、相手と気持ちのつながりをうまく結べずにバランスのよい人間関係が築けなかったり、心が不安定になったり、ストレスが身体に出やすかったりといった、社会性や対人関係に困難のある状態がでてきます。これも幼少期の不適切な親子関係や養育に起因していると考えられます。
女性の社会進出は賛成ですが、幼児にとっては育児より優先される経済活動も社会貢献もないのです。
詩
「聞いてください」という、レオ・ブスカーリアというアメリカの教育学者が書いた詩があります。
私がカウンセラーとしていつも心に留めている詩です。
しかしこれは、カウンセリングだけではなく、傾聴や悩みを聞くときや日々の会話でも念頭に置くものだと思っています。
以下にご紹介致します。
「聞いてください」 by レオ・ブスカーリア
私の話を聞いてください、と頼むと
あなたは助言を始めます。
私はそんなことを望んではいないのです。
私の話を聞いてください、と頼むと
あなたはその理由について話し始めます。
申し訳ないとは思いつつ、
私は不愉快になってしまいます。
私の話を聞いてください、と頼むと
あなたは何とかして私の悩みを
解決しなければならないという気になります。
おかしなことに、それは私の気持ちに
反するのです。
祈ることに慰めを見いだす人がいるのは
そのためでしょうか。
神は無言だからです。
助言したり、調整しようとはしません。
神は聞くだけで悩みの解決は自分に
まかせてくれます。
だからあなたもどうか
私の話を聞いてください。
話をしたかったら、私が話し終えるまで
少しだけ待ってください。
そうすれば私は必ずあなたの話に耳を傾けます。
小林宏 ご挨拶
はじめまして。
心理カウンセラーの小林宏と申します。
一般企業に勤めながら心理カウンセラーとしてカウンセリングや傾聴講義の活動をしています。
私はカウンセリングの民間資格は取りましたが、代々の前人のように資格はクライアントからいただくものと思っております。
カールロジャーズの来談者中心療法を学び、トレーニングを続けている日々です。
宜しくお願いします。
さて、人間は幼少期の母子の関係によってその後の一生が左右されることが多いです。
母親から世界の中心として育てられた子は自分は存在してもよいのだという生存の土台がしっかりできます。
愛情が不十分な子は大人になっても、自分が幸せに生きることに違和感を覚えたり不安が常につきまとったりします。
そんな子が大人になると色々な障害が出てくる事があります。相手とのコミュニケーション下手や自分にしかわからない得体のしれない押さえがたい否定的な衝動などです。
やがて自分の意識では拭い切れず八方塞がりになり、外に向けば凶悪犯罪、内に向かえば自殺と最悪の結果となることも事実です。
昨今のさまざま事柄をカウンセラーの視点から、できるだけ平素に書いていきたいと思います。
●カウンセリング概要
1回50分 6000円(税込)
秘密厳守
カウンセリング枠厳守
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※カウンセリングは只今休業中です。
再開したらお知らせ致します。